2019年10月17日
先日の大型台風19号、家のほうはどうにか無事でしのげました。しかし、今回の台風は日本各地、広範囲に甚大な被害をもたらし、今もなお、浸水被害や停電が続く地域が多数あります。 私の地元、神奈川県内も例外ではなく箱根町には記録的な大雨による土砂崩れや浸水、それから相模原市、川崎市などにも河川の氾濫や土砂崩れなど相当な被害が出てしまいました。また、千曲川、阿武隈川、久慈川流域の惨状を報道で見るたび、また報道されてない地域でもSNSなどで情報を目にするたびに心が痛みます。被害に遭われた方々へは、謹んでお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。健やかな生活と美しい風景がまた元にもどりますように。。。。
2017年02月02日
ヤタ ヨシヤス氏が運営する東北への義援金ブログ「B-bookstore~元気が出る本屋~」に、皆様にもお勧めしたい本を紹介しました。私の微力が少しでも力になれますように。。。。 http://bioodbord.blog103.fc2.com/blog-entry-2265.html
2015年10月05日
日本がサモアに勝った!!!南アフリカに勝ったのはキセキではなかった!!!そういえば、ご縁があって、1997年にラグビー協会から、この大会のパンフレット表紙を依頼され、描いたの思い出しました。絵は今日のサモアのジャージ色と同じ。
あのころ、プロレス以外に、ラグビーも外苑前によく見に行ったけど、日本がワールドカップに出られるなんて、予想もしてなかったなあ。。
ラグビーはなんといっても生身での格闘技なので、見ていて血が沸きあがりますわい!
2011年05月02日
2011年04月03日
古来、日本人は自然との調和の中で暮らしてきた。自然を崇め、その恩恵の中で感謝しながら静かに暮らしていた。それは今も残っている日本の庭園や神社仏閣、武家屋敷や古民家などのたたずまい、そして地方に伝わる数々の伝統行事からも辛うじて知ることができる。 18世紀ヨーロッパで産業革命がおこり、アメリカからは黒船が来て、日本も明治維新を迎える。職を失った武士は金を得るためにお宝を手放し、城も資金難で維持できなくて次々に取り壊され、貴重な美術品も次々と海外流出。そこでは昔のものは全てダメみたいな風潮もおこる。 明治前は橋をかけるにしても、自然の景観を壊さないよう、細心の注意がほどこされていたり、家を作るにしても庭と家が自然の中に溶け込んでるように見えるように作っている。美術品を見ても、自然や花鳥風月からネタをしこんで、繊細で丁寧で完成度が非常に高い。長い間の鎖国政策で日本独自の文化が根付いていた。それらは一部は伝統文化として今でも続いているけれど、多くのものは失われてしまった。一番悲しいのは、日本人が一番大切にしてきたはずの自然を破壊してしまっていること。自国だけでなく、外国の自然まで破壊している。日本の家を作るために熱帯雨林まで切り倒す。中国で使用してる農薬の一部は日本で製造し輸出している。日本では使用禁止でも商売では問答無用。そして今、原子力の事故で取り返しのつかない事態を引き起こすまでとなっている。すべての生物の生命維持に大切な海と大地と空が大量の放射能流出で汚染されつつある。 江戸時代前に戻れとは言わないけれど、1000年に一度の国難に見舞われ、さらにその二次災害じゃなくて人災であるレベル7の原子力事故に合って苦しめられてる今こそ、自然崇拝をしていたころの日本の生活を見直したほうが良いと思う。
産業や文化など生活の至ところで、自然と調和して暮らしていた歴史があるならば、その良いところをもっと先人に見習うべきだと思う。
2011年03月13日
一昨日の地震は私も今までにない恐怖を感じた。町田のショッピング街でのビル4階で食事中に地震に遭遇。10階建てのビルなのでゆれにゆれて恐かった。少しおさまって従業員とお客、全て外に非難誘導される。外は人があふれていて、さらに余震も続きみなパニック状態になった。停電で信号機も止まり、電車もすべてストップ。しばらく駅周辺にいたけど、歩いて帰ることを決めて帰宅。自宅でTVを見て、次々に映し出される各地の被害状況の凄まじさに愕然とする。自然災害に対しては無力であることを実感。たくさんの人々が一瞬のうちに被害に合ってしまう。私は岩手県盛岡市で大学時代を過ごしたので、県内各地にいる友人やそのご家族は皆大丈夫なのかとても心配。陸前高田や大船渡には友人の実家がある。また知らない人であっても、一時期を楽しく過ごし、大変お世話になった岩手県の各地の人々のことを思うと、心がはりさけそうになる。どこに行っても美しい自然と街並みだったところが無残にも全て破壊されてしまっている。あの青くて美しい海はどこに行ってしまったのか。
また岩手だけでなく宮城、福島、青森にも知り合いがいるから皆無事でいることを祈るばかり。相馬市の沿岸部に住む友人は連絡がつき無事を確認。
でも祈ってるばかりでなく、今自分にできることは、なにかあるのか考えたとき、お金もないし、ましてや救護活動に行っても素人は足手まといになるだけで迷惑。そんなときに知り合いからメールがくる。そうか。節電か。今はこれなら微力でもできる。とりあえずできそうなことだけでも協力していこうと思う。しかし、一方で福島原発も気になる。報道を見るたびに非常に深刻な事態であることが判明。現場では相当のことを自らの危険顧みず必死でやっていると思う。今のこの最大の危機がどうか回避に導かれますように、って今は願うしかできない。。。
それから、大学時代によく遊びに行った岩手県三陸沿岸の写真を探したけれど、あまりなかった。。かろうじて、三陸沖で合宿した時と大船渡と宮古に行った時の写真があった。どこに行っても本当に海は青く美しく、海と岸壁と松林が水墨画で描くの風景のように美しく広がっていた。6年間の間に何回もよく遊びに行った。その時ふれあった町の人々。みんなとてもやさしく、明るく親切だった。TVや新聞で映し出される現在の惨状を見て涙が溢れ出る。一日も早い救助と十分な支援、そして復興を願うばかり。
2010年11月13日
大学勤めの時にお世話になったK先生米寿お祝いの会に行った。K先生はちょっとゆっくりなしゃべりになったけれど相変わらず、皆に聞かせるお話は面白
かった。
戦争末期では医療器具も薬も少なく、被弾した者は切断以外の治療しかなかったので、滅菌もままならない環境の中、毎日そんな手術やどうしようも
ない怪我や病人ばかり診ていたので、もう臨床はやめて研究の道に入ろうと決意したという。また、軍医の上司で戦闘機の操縦もこなす方がいて、飛行機に乗っ
ている時の血圧や血液など航空機環境が人体に与える影響状態を調べたりしてることを知り、面白いと思ったこともきっかけだったらしい。その後、その方とはK
先生がJ大学に教授として赴任した時に、公衆衛生の教授になっていて、再会したという。
また、横須賀の海軍にいたころ、特攻隊に志願してくる人たちを夕日の中で見送り、申し訳ないという気持ちがずっと心の中にあった。50歳のころ
仕事に余裕もできたので町の合唱団に誘われ、入団したところ偶然にもモーツアルトやベルディのレクイエムを定演でやるような合唱団だった。そのとき自分が
このような鎮魂歌を歌うのは、あのとき見送った人々に捧げるためと思い、仕事が忙しくても休まず通ったと、時々涙を流して語られてたのが印象的だった。
そのようなお話を今日K先生から直接お聞きできたことを私はとても幸せだと思った。